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人は本当は死ねない
なのにこの世界の現実感として死を見てしまう。
これは神(偉大なる意志と言ってもよいかも)が自分を知る(体験することで再確認するようなものか?)という壮大なドラマを創出するために創ったこの我々の存在する宇宙にすべてを忘れて人間として生まれてきているという。
だからその体験すべてが現実の様に錯覚(自らそう設定して来た)するのですが、本当は死などと言うものは無く、それは形態を変えた生の力換えポイントでしかないのです。
しかし身体に古来から染みこんでいるような知識と思いこみによって、どうしても我々は人の死を悲しみます。(それで良いのでしょうが・・・・そのわき上がる感情が体験のひとつでもあり、失うという感覚が深い愛を確認できたりするから)
でも今まではそうであったのがこの新世紀に入ってそろそろ地球上のワンステップアップの段階を(人類の深層意識で)迎える準備が出来たということのようです。
そのため今いろんな方面でその情報が出されています。どれが真実というよりも、人は自分の信じたことが真実になる」という創造主のミニチュア版の様な存在ですから、真実とは「どの選択が自分にとって好ましいか」が真実となる不思議な世界のようです。
それも数が多いほど、その影響力が大きくなるようで、それと地球自身の意識の上昇とマッチすることが、これから起こる事象に遭遇して自分自身の選択の決定を行って行くことのようです。
もちろん、意識の強制などは今までもこれからもずっと無いわけで、自分がどの思考を選ぶかどうかの自由選択になるようです。
この考え方も自由選択のひとつですから、今までの様に「神がその人の行いに対してすべてを審判している」という考えを選ぶなら、そのような現実が起きてくるというのがミニ創造主たる各人間様のようです。
あくまで起こる事象に強制的なものはいっさい無く、不自由だと思うなら不自由な現実が現れるし、それが「大自由」とでも言うのでしょうが。
岡田茂吉(あえて敬称を付けない)が「大調和」という論文を書いていますが、同じように自由も不自由も自分が認めて創り上げている(もしくはそれを承知してその世界に生まれる)のだから、それこそ大自由といえるのかも知れません。
なんだか、地震の災害からいろんな事を考えさせられますが、これも今の段階での私の自由な発言でして、今後変わる自由ももちろん捨ててはいません。
で、表題の件は前書きが長くなったので次回に
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