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を紹介したのですが、これを貰った人は相当出来てないと反感を買うだろうと書いてしまいましたが、もちろん大愚と称する良寛さんは相手を知っての手紙だったと思います。
災害に遭うときは遭えば良い というのは、運命論として見ているのかと思います。
この運命ですが、神が決めた運命だと思うと、これは他からの強制みたいになりおもしろくもありません。また、神が何か自分の行いに審判を加えて罰するという意味も含まれるかも知れません。
私は岡田茂吉の運命、宿命論は番組のひとつであり、それもまだ昼の世界に入ってない黎明の時代の教えであったと思っています。
神の命によりというと神と私はまったく別々の存在として見られます。しかし本質は誰でも神であるのですから、神に見えないように仮装して出てくる出演番組みたいなもので、神でないと自分自身を思いこませてこの世で演技しているだけのことで、神とは自分の根本の存在であって他者でもなく、命令を受ける者でも無いというのが人間の真実だと言えそうです。
それなら運命に任せる(災害に遭う時は遭うが良い)のは、既に本質の神に近い自分自身が設定していたものであって、表面上の自分はそれをいっさい忘れているだけのことです。
そして「死ぬる時には死ぬが良い」という意味もその運命に逆らうから人は驚き悲しみ怖がるのであるというようなことかと思います。
もっとも、この本質が分かっていたらもうこの世の喜怒哀楽もほとんど刺激がないのでおもしろくも何ともなくなるのでしょうが。l
だから人は悲しむときはうんと悲しみ、喜ぶときはうんと喜べということかも知れません。免疫力の計測で喜ぶときに針が上がったとともに、人が落ち込んだときそれを十分味わうと、もっと免疫力の計測の針が上がったという話を聞いて、
なるほど、人はこの世で喜びもそうだが、悲しみも落ち込み状態も十分味わいつくすという舞台を自分達で創って、そこで度壺にはまったように一種の「ふり」をしているのだな・・
という思考もひとつの考え方です。
自分たちというのは神々であり、神々とは元をたどれば創造主と言われる神になるのでしょうが。
状態だけを見ていると悲惨さだけが強調されて見えますが、自分から極力もっと高見にいる存在として認識できてくれば、悲惨なことは本来この世界にはないんだと思うことができるのではないか・・・・・私は今そちらの道の方へ選択しようとしています。
浄化という言葉も 曇りが解消される という事も真実でしょうが、
何かを自分が体験したい、そこから自分のすばらしい所を再認識したい、という事に意味づけるともっともっと軽い気持ちになれそうです。
悪だから浄化するという意味を超えて、 そうなると審判とか裁きとか言う言葉も効力を失うのではないかと・・・・・
良寛さんはそこんとこをよく分かっている人にあの見舞いを書いたのではないかと思うのです。 災難も死も本質的に悪いものでも何でもないんだ。
まあそこまで心も体も受け止めれば、車中泊も心臓バクバクも無いんだろうけどね。そこは口先男だから・・・・
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