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と言ったのは明主様(岡田茂吉)ですね。
私も元信者ですから教えられています。
つまり浄化とは悪化作用ではない。病気も浄化ですから悪化作用ではない。
という事なのですが、見た目はどうみても悪化作用に見えますね。極限は死亡ですから、こういう状態になると、果たして悪化作用ではないと言えるかどうかと疑問を持たれるのでしょう。(私などは)
しかし、もっと奥の方から見るとここのHPの下の精神世界リンクなどを覗いたりすると、その思考はまだ低い番組として見ているのかも知れません。
人の本体は肉体ではなく、この世界では有限を体験して、そこから感じる喜怒哀楽の感情を味わいながら本体の神の存在に近づいてゆく(というか帰って行く)のかも知れません。
本来人に罪や穢れなどはなく、この世界に本来あるはずもない時間と空間を生み出して、仮想体験を実在の世界の様にうまく仕組んで出てきた神々(私もあなたも)がそこで遊ぶかのごとく、創造を楽しむ。
楽しむというととても理解不能の様ですが。それがすべて理解されたら覚醒者としてこの地球上の体験もつまらなくなるのでしょうが。
ともかく、事故に遭おうが災害に遭おうが病気になろうが、それは他者(もちろん神も)から強制されて逢うというのものではなく、自己の本質適存在である魂から見れば自己選択しているということです。
だから見方によっては曇りのある所に浄化があるともみれるし、もっと根本から見るとそれは自己の本質を実感するための舞台装置として材料として、自分自身がすでに設定した場面でもあるということになります。
ちょっとなんだか分からない様なことを書いていますが、表紙の下の方のリンクをじっくり呼んで味わってください。
悲惨な状況の裏には本当はすばらしいものが含まれていて、そこには天罰とかいうようなものはいっさい含まれていないということを知ればよいようです。
起こる事象にいろいろな解釈を施すのは人間です。意味づけも千差万別です。
しかし、この災害の中において一人ひとりが体験して味わう感情やその行いなどは、すべて自分にとって無駄になっていないし、本質は決して悲しむべき事ではないということを確信しています。
それが何があっても大丈夫という言葉だと思いますし、ありがとうございます もそれを受けている言葉だと思います。
後はこの体験を通して自分が何を考え何をしたいというかを自分なりの自由に選択することだけが真実なのではないかと思うのですが。
それにしても、頭で考えていることと身体の反応は違うようで、揺れる度に心臓はぱくぱくと反応するのですから、この身体だってやはり生き延びたいといつも思っているようで、愛おしく長持ちさせるようにがんばって車中泊をしました。
そんな事は生き延びたから言えることとして。
あらためて、被災死亡者、家屋の損壊した方々のお見舞い申し上げます。
昨日は人の身、明日は我が身と言うように、どれも人ごとではなく、一見悪い状況を受ける役目をしてくれた方達なのです。
あのイエスが一番感謝したのはユダだと聞いたとき、悪役を引き受ける勇気と同様に被災の役を受ける勇気に感謝するばかりです。
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