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って、変な言い回しですが、自分にとっての都合で物事を判断すると、こんな風になるのでしょうね。 よい人、悪い人ってのはいい加減なのです。
賢い人になるには判断の基準がどこにあるかで決まるようなものかな?
それでも結局は善と悪の判定は最終的には出来ないと言われます。
で、医学が誤っているという指摘も絶対の悪ではなく、相対的に見ると善の働きをしていたと気づくのでしょうか?
なんの事を言っているのか分らないでしょうが、具体的に言うと、医学が人体の自然な仕組みを発見できないでいたため、症状に対して行なう「逆症療法」がかえって後々への病気を産み出す元となっていたということです。
その最大の材料が 薬 であったわけです。
毒が薬となるのですが、そのためにどれだけ「いざというとき」に「病気になれる」「種」を植え付けられていたかを理解すると、おもしろいことに(実際にはとても不快感が生じたり苦痛までおまけがつくが)そのために「必要な時に病気が起こる」ということです。
その「必要な時」とは 「本質」から「離れた」ときがグットタイミングなのでしょう。
それによって人はあるものを「求めます」
あるもの とは やはり自分の本質なのでしょうか? 苦しんでもだえて、無力感を十分あじわって、ようやく そちらの方向へ意識を向け始めるのかも知れません。
その一番よいきっかけを与えてくれるのが災難や病気かも知れません。
もちろん、そんな体験をしなくても 気づける人は幸いですが。
そういう種を仕掛けておかないと人間は丈夫で元気で健康に不安も何も無いと、どんどん自分の思うまま進んでいけます。そして時には相当本質から離れていってしまい、戻るに相当苦労しないとならなくなります。戻ることさえ気が付かないかも知れません。
物事が順調、やることなすこと上手くいっている時、それはそれで幸せなのかも知れません。しかしそれがその人をすごく高慢な人物にしていることもあります。立身出世街道をまっしぐらで大企業の社長にまでのぼりつめ、ほんといやらしい貧げんになっているひともいます。
しかし、いつかは本質の方では戻さないとならないということで、しかけを発揮する時期をまちます。
そのためには 前々からしかけておいたものが用意してありました。
つまり、本人の本質というか潜在の方は病気を悪いものとしてでなく、必要な道具というか、チャンスとしていつも持っているようなのです。
もちろん表面意識の方はそんなことは分りませんから、病気は悪いものだと思っていますから、症状が現われるともがきます。
その「もがき苦しむ」過程から ようやく気づきへと方向転換できるのが凡人なのかも知れません。
そういう意味で、 薬は毒で、薬が病気を造り出すのは本当なんだが、それは大きく見ると、最高のものを思い出すための小道具なのだよ って、こう自分に言い聞かせている、きょうこの頃であります。
日誌おわり。
http://homepage3.nifty.com/himaari/c-1.htm
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